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2013年3月21日 (木)

月刊「ナーム」を読み返す(3)

月刊「ナーム」2006年4月号

”ここが変だよ”「日本の子ども社会」(和田重良)

和田重良:1948年小田原に生まれる。東京教育大学卒業。昭和42年に設立された「一心寮(現在のくだかけ生活舎)」を足場に、子ども達の生活教育活動を展開。生活舎での共同生活(人生科や農作業中心)の実践をとおして、青少年や家庭の生活にさまざまなメッセージを送っている。ボランティアのお母さん達と共に活動する、NPO法人「くだかけ会」代表。著書に『心いっぱいに育て』『両手で生きる』『ぼくたちの山がっこ』などがある。

子どもの暴力的、破壊的傾向は増々進行していると思えるのです。小学生が同級生にナイフで切りつけられて相談もボツボツあるし、暴走族に殺されかかった子が逃げて来たり、家族を殺しそうになった子も来たりするのです。

事の大小を問わず、世の中が急激に暴力的、破壊的になっていくことを「子ども社会」が先取りしていると思えてならないのです。

今、人類が持ち合わせている最終破壊技術は言うまでもなく、「原子力」です。

「子ども社会」が「大人社会」になった十年後、二十年後はどんなことになっているのか、心配性ですから、とっても不安なのです。

自己中心性はある意味、健全に発展してゆく自我の目ざめには必要なこと(成長にとってですが)と認めざるを得ません。ところが幼児的自己中心性からなかなか目ざめない少年、青年、成人が増えてゆき、とうとう「自我の破壊」という重大な局面を迎えているのです。

「自分の存在を消したい」願望と裏腹に、「ヒステリックな自己表現」をくり返します。

こうなったら「教育」なんて無力です。教育は、人間の「自我の破壊」の上には成り立たないのです。そこで、出番は「仏教」です。いや仏教に限らないのかも知れませんが、自己創造には「宗教性の教育」が必要不可欠になっていくのです。

仏教というしっかりとした観点を持って、「教育を超えた教育」を実現できれば、これは「自我の破壊」→「暴力的自己」という地獄からこの社会を立ち直らせることさえできると思います。そしてさらにその先に、取り返しのつかない最終破壊技術の「原子力」を手ばなして、人類破壊兵器を卒業できるかも知れないのです。

*****

「仏教(宗教)イコール生活」というのが、ぼくが父(和田重正)から教わってきた最大のポイントです。

そういう面から見ると、教育は生活を忘れた、寝ぼけた宗教(仏教)に似ています。「生活なくして教育なし」です。生活を失った家庭に教育は成り立ちません。生活を失った地域に「教育力」なんて言ったって何にもならないのです。もともと学校には生活はないのですから、掃除を罰でやらせたり。罰で座らせたりしてしまうのです。

ぼくの所では、掃除や正坐「そのもの」が生活の本体です。さらに、畑や田んぼやニワトリを飼うこと「そのもの」が生活の本体です。だから、そのことに学びがあり、自己の本体も確立されてきます。

生活の現場に立たなければ何も伝わって来ません。親たちには「生活行」の大切さを言っています。

毎日ゴハンを食べること、歩くこと、ねむること、遊ぶこと、全てひとつひとつ、ていねいに、ていねいに味わい感謝する「生活の行」なのです。マキを割ること、畑を作ること、火を焚くこと、全てが生活現場です。

中学生のA君が、「こんなに働くんならバイト料もらいてえくらいだ」と言ったのです。「自分のはたらき」ということが見えてこない、西洋風の個人主義が間違って伝わってしまったいい例です。「あんたのやっていることは自分自身を成長させることであって金のもらえる労働とは質的に違う」ということをまず教えなければならないほど、生活の意味は損なわれています。

浅はかな拝金主義や、酒を飲ませて集団レイプして「オレは悪くない」と言うできそこないの大学生を作った教育は一体何なのでしょう。強引な手法で選挙に勝てば、本当の日本の将来の道なんてのはどうでもいいという調子の目の前しか見えない政治家にダマされ、態度をコロコロ変えて自分だけが正義だと言っているマスメディアに踊らされ、「受験」に勝つことだけが教育の目的だと塾や予備校に洗脳され、「人生」の何たるかをひとつも伝えようとしなかったツケが現実になってきただけです。

ここでも「仏教」の出番じゃあないですか。「本当のしあわせ」の一端でも伝えてゆかなければならないのです。

子どもと学ぶ「人生」とは何か、それは自己を振り返り、自己を学ぶことです。そのためにぼくの所ではまず『朝の三点セット』からはじめます。

「起きる」「掃除する」「坐る」の三つです。山の上ですから真冬はマイナス五度にもなります。それでも、この三点セットは欠かせません。どれも「イヤだなあ、やりたくないなあ」と思うことばかりです。でも、それを淡々と毎日くり返してゆくことが「自分に出会う」こととなってゆきます。

この世に生まれた大切な「人生」を学び損なっていたのでは悲しいことです。

心を鎮め、空を見、花を眺めるのです。いのちを味わい、心の内なる声を聴くのです。

TV、インターネット、ゲーム……そんなものでムリヤリ光を当てられ、音を聞かされれば心は波立つばかりです。頭は虚しく情報に支配され、物事をしっかり見る、じっくり聴くといった「人生」の基本が何ひとつ学べないのです。

ハッキリ言って、もう対症療法では間に合わないのです。心の荒廃はすすんでいるのです。対策を講じているうちに別の不祥事が生まれるのです。

少子化やニート対策に国のお金を使っているヒマがあったら、もっと貧乏人が困らないようにするとか、困っている国を助けるとかに使えと言いたくなります。

だってそうでしょ。こんなこと、根本を変え、「人生観」「世界観」をキチンと積み直せばお金なんか一銭もかかりません。

ヤル気の無いものにヤラセルなんて”酷”ってものです。ヤル気が出ればヤルことをヤルんです。……いろんな意味で……。

ぼくは、ちょうど一年前から「よかったね」「よく来たね」という二つの愛言葉掛けからはじめよう、ってな呼びかけをしはじめました。宣伝不足もあって、ちっとも盛り上がりませんが、これは、とにかく「あんしん」するための第一歩なのです。肯定と受容という、人間の存在を保証するいのちのことば、愛言葉なのです。「よかったね」「よく来たね」という簡単な言葉ですが、これが、はじめの一歩です。

比較され、否定され、排除され、ダメなところばかり指摘された上に「努力しろ」と強制されるばかりでは、はじめの一歩を飛ばしてしまっているのです。

まず、肯定され、受容されることで第一歩が歩めれば、その後、挫折があっても、困難があっても「自我の破壊」には至らないで、「自我の脱却」に向かえるのです。「努力」というのは、その方向が正しいものでなければ意味がありません。

はじめの一歩の踏み出しが間違った方向に向いていたのでは行き先が間違ってしまいます。「よかったね」「よく来たね」の二つの愛言葉運動にあなたもぜひご参加ください。

大震災のずっと前に書かれたのに、「原子力」の危なさをちゃんと氏は示されているsign03

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