« 「ビッグイシュー日本」買ってください!!!―ラジオから― | トップページ | ダイエット 佐賀の「からだ屋本舗」はいかが? »

2009年10月25日 (日)

遠藤周作著『お茶を飲みながら』―抜書き―

遠藤周作著『お茶を飲みながら』は、だいぶ古い本だが、読み直してみて、今の時代にもしっかり当てはまるところも多いと感じる。

まずは読書について…

佐藤朔先生はわれわれ学生に「乱読をしてもよい。しかしその中から一冊だけは一字、一句ゆるがせにせず何度も何度も繰りかえし読め、その本についてはだれよりも自信をもてるまで読め」と言われた。神西清先生は「一人の作家なら作家のものを全部、読むこと」と教えてくださった。

これは自分自身の経験だが、古典は無理をして読まなくても、必ず読みたくなる年齢がくるようだ。

若いうちに古典を読んでも、なにか義務感でページをひろげている人は、そのまま本ダナに入れておかれてもよいと思う。いつか必ず読みたくなる時期がくるはずである。

参考になるところがあるのではないだろうか。

次の箇所は、先日の加藤和彦氏の死去を思い出させた……その時に起こった川端康成氏の死について書いている。

 川端先生がお亡くなりになられた。ご遺書がいまのところない以上、先生が何故、死を選ばれたか、だれにもわからないだろう。ひとりの大作家の死に至る心の秘密を、まったくつかめる者などありはしない。我々はその一端をあれこれ、想像するにすぎぬ。
 三島由紀夫氏の自決のあと、火野葦平氏の死も自殺だったという記事が出た。そしてこんどの川端先生のご逝去である。
 自分の信念をつらぬいて死を選ぶ作家はみごとである。いたずらに老醜をさらして生きのこるよりは、みずからの生命を断つほうが誠実である場合もある。
 だが、同時に醜をさらして生きのびることにも意義があるように私には思える。私は出鱈目なカトリックだが、カトリックは自殺を禁じている。しかし私は時々、死にたいと思うことがあっても死なないでいるのはそのためではなく、ひとつには死に対する怖れからでもあるが、もうひとつにはどんなに生きのびることが醜く、うすぎたなく自他共に思われようとも、なお生きのびること自体に意味がありはしないかという問いに解決がついていないからでもある。
 人生はどうせ醜く、うすぎたない。とくに年とれば年とるほどその思いは強まっていく。そのように醜く、うすぎたない余生に決着つけずに生きのびることは一見、卑怯にみえるようだが、醜くてうすぎたない人生だからこそ、なお生きつづけることに値し、生きつづけねばならぬという考えも成り立つのではないか。

加藤氏は、今の日本に音楽は必要なのだろうか、という文章を遺書に残しているとか…

必要だからみんな音楽を聴いているのだ。思い出に浸ることも生きていく力になる。あのころの加藤氏の作った歌を聴くのも、前向きに生きていく糧になる。

そう思っている人は大勢いる。その人たちのために生きていてほしかったな。

振り返ることをしないという加藤氏にとっては、それしか道がなかったのかもしれないけど……

|
|

« 「ビッグイシュー日本」買ってください!!!―ラジオから― | トップページ | ダイエット 佐賀の「からだ屋本舗」はいかが? »

「書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「ビッグイシュー日本」買ってください!!!―ラジオから― | トップページ | ダイエット 佐賀の「からだ屋本舗」はいかが? »