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2009年9月24日 (木)

三浦朱門著「老いれば自由に死ねばいいのだ」―抜書き―

三浦氏も、遠藤周作氏と同じで、宗教や死ぬことについていろいろ書いておられる。

私の本棚を眺めると、どうも、死ぬことや宗教についての本が多い…coldsweats01

【古本】老いれば自由に死ねばいいのだ/三浦朱門

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死者は生者の生活をわずらわしてはいかんというのが私の考えなんです。

社会性の全くなくなった人にとっては、例えば私の両親や女房の親のような、社会的にリタイアして、二十年も三十年もたった人、そういう場合はその死を知らせる必要はないと思います。

私は自ら愛した子供とか、可愛がっていた孫とか、最期を見とってくれた人とか、そういう人たちによって葬式をするのが一番行き届くような気がしますし、故人にとっても幸せではないかと思います。

うちの旦那は今、これと同じ考えになっている、つまり自分が死んだ時は家族葬にしてくれというのだ。確かに、最近家族葬が増えてきているらしいけど。

墓をお粗末にすると祟りがあると考える人はもう少なくなりましたでしょうが、親不孝だというような倫理的な非難をされる恐れはまだあるかもしれません。

私の父は自分の両親の墓がどこにあるか知らなかったんですけれど、先祖の祟りで野垂れ死にしたかというとそうではなくて、息子、娘、それぞれの配偶者、孫、曾孫にまで囲まれて大往生を遂げました。祟りなんて、そんなに簡単に祟るものじゃありません。祟るほどの強力な霊魂の力みたいなものがあるとしましても、なんでその憎しみが愛する子供に悪さをするものですか。

これと同じようなことは、ひろさちや氏や大川隆法氏も書いておられたように思う。

私は、肉体としての骨以外に、そういう精神の軌跡としての遺物を残してくれたということでは、両親に感謝しています。じゃあどちらを大事にするかというと、私は骨よりも精神の軌跡の方が自分の父であり、母であると思い、そちらの方を大事にします。

親がガリガリの仏教徒だったら、キリスト教徒になるのは非常に難しいでしょう。キリスト教が渡米した時、日本のキリシタンが抵抗を感じたのは、死んだ時、親と同じところへ行けないということでした。これは大きな恐怖心だったろうと思います。

恐怖心のことは考えなかったが、私も結局、この点に引っかかってキリスト教に入って行く決心はできなかった。以前書いた記事、遠藤順子著「再会―夫の宿題 それから」―抜書き―とか遠藤周作著「死について考える」―抜書き―にもそのあたりのことを書いた。

遠藤は、自分が死んだら、母や兄や自らの親しかった人たちが天国にいて、そこで会えると信じています。カトリックでない人たちは、それは日本人の古代から伝わっている宗教観、つまり、死ねば先祖のところへ行く、そこには、親兄弟もいる、そういう日本古来の宗教観と遠藤のカトリックとは考え方が同じじゃないか、と言うんですけれど、私は、天国とか地獄とか煉獄とかいうのは、人の心の中の問題だと思います。

日本人のカトリック教徒は、古来からの日本人の考え方をうけついで来て、それがカトリック教徒になったのですから、日本人の物の考え方をうけついでいて、西欧のカトリック教徒らとはちがっていると思います。

私の考えるカトリックというものは、遠藤のカトリックほどは優しくないけれども、それでも、どうでもよいわという感じがあって、神様が最後にはうまく始末してくれるわ、といったような、変にたかをくくったようなところがあります。それは浄土真宗的なものに通じています。浄土真宗というのは、浄土真宗という宗教をつくったというのではなくて、仏教の中に日本的な信仰心を導入したものだという気がいたします。それと似ていて日本のカトリックには、私のキリスト教の中にも、浄土真宗的なものを、日本的な信仰というものを導入しているようなところがあると思います。

カトリックが他の宗教に対して誇るべきことは、幾たびも幾たびも堕落し、衰退し、これが宗教団体かと思われるような、ありとあらゆる人間の犯し得る罪業の限りを積み重ねながら、幾たびか蘇り、蘇りして来たということです。だから、人間の弱さとかもろさとか、悪について最も理解の深い宗教の一つだという気がいたします。

この、人間の悪の部分をよく知り、許しているのがキリスト教だということが、私が幾度となく、キリスト教に引き付けられた部分。つまり、自分が、他の人に対して、こんなにも憎しみを持ち、心の中で汚い言葉を吐くことができるひどい人間だと知った時に、キリスト教に惹かれたというわけcoldsweats02

キリスト教というのは、宗派の対立で殺し合いをしたりもしているし、キリスト教の信者でなければ天国に入れない、という考え方もあったりする。そういうことが、キリスト教の内部でも問題になったことがあるらしい…

そういうことが第二公会議において、昭和三十七年の時に改めて問題になって、教会というのは、同じ信仰を持っている人と、あるいは、違う信仰を持っている人たちと、もっと共通のものを見つけなきゃならないということを強く打ち出したのです。神様を知らないでも、キリストを知らないでも、立派な人がいるじゃないか、その人たちは地獄へ行ってしまうなどというような考え方をしてはいけない、そういう人も正しい人なのだ、という形で言っております。

遠藤氏も、こういう寛大な考え方のキリスト教信者であったわけです。

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