茂木健一郎著「脳の中の人生」―抜書き―
近頃は、脳や記憶に対する興味を持っている人が多いだろう。鍛えようと頑張っている人も多いはず。
印象に残った箇所をいくつか…
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脳の中の人生 (中公新書ラクレ) 著者:茂木 健一郎 |
記憶を支える脳のはたらきについては、現在、盛んに研究されている。記憶が最終的に蓄えられる大脳皮質の側頭葉、それを支える海馬といった領域の仕組みが、徐々に明らかにされてきている。「一日のうちに体験することは膨大だが、なぜそのうちの一部分だけが記憶され、他のものは忘れられてしまうのか」。無意識のうちに書き込むべき記憶を選別している、脳の情動系のはたらきも明らかになってきている。
また、記憶は、過去を振り返るだけではなく、未来に何が起こるかを予想することや、新しいものを生み出す「創造性」のはたらきとも関係している。実際、未来を予想するときに活動する脳の領域は、過去を思い出す際にはたらく脳の領域に近いことが知られているし、創造する際には、思い出すときと同じように、「何かを知っている」という感覚が先導役になると言われている。
「セレンディピティ」という言葉がある。うちの子供たちが小さい時にアニメに何かそんな言葉が出てきたような気がするけど…
これは造語で、18世紀にイギリスのホラス・ウォルポールという人が、ペルシャに伝わる古い童話『セレンディプ(スリランカの古称)の三人の王子たち』の中で、王子たちが、旅の途中で、決して自分から求めたのではないのに、たびたび幸運に出会うことに触れて、その「偶然に幸運に出会う能力」を「セレンディピティ」と名づけようと提案したんだそうだ。
セレンディピティを支える脳のはたらきとしては、たとえば、偶然の出会いを見逃さない観察力、洞察力が挙げられる。偶然の幸運が訪れても、それに気付かずに、やり過ごしてしまう人もいる。何かに出会ったとき、その意味を悟り、偶然を必然とする能力が必要とされるのである。
偶然の出会いは、しばしば最初は無意識の中に感受される。無意識に感じていることを意識化して、はっきりと認識することのできる「メタ認知」の能力も、セレンディピティを支える重要な要素である。
メタ認知とは、Wikipediaによれば
「現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力」
ちょっと具体的にいえば、自分の行動、考え方、知識・特性・欠点などを客観的に見て認識する能力のこと、らしい。
脳を鍛える、ということで最近はドリルやパズルが流行っている。でも、と茂木氏は言う。
人間の知性の成り立ちは複雑である。答えの決まったドリルやパズルを解くだけでは、創造性もコミュニケーション能力も身につかない。一方で、基本的なスキルを確実に身につけておくことは、創造性を発揮するための「安全基地」としては機能し得る。
安全基地としての基本的なスキルを生かす上で鍵になるのは、実は感情である。創造やコミュニケーションにおいて大切な、直感や判断といった人間の能力は、大脳辺縁系を中心とする感情のシステムによって支えられている。
パズルやドリルは、記憶や論理を司る大脳新皮質を鍛える。しかし、直観や判断力を育むには、感情のはたらきを支える大脳辺縁系を中心とする脳の部位を鍛えることが必要なのである。結局は、答えのない人生を真剣に生きることでしか、脳の感情のシステムを鍛える方法はない。
そして、日本人にとってものすごく興味のある話題、つまりどうしたら英語が上達するのか、ということについては…
脳科学の視点からすれば、処方箋は一つしかない。すなわち、できるだけ多くの英語の文章を読み、会話を聞くことである。
私たちの脳の中では、海馬の助けを借りて、大脳皮質の側頭葉に長期記憶が蓄えられる。長期記憶は、まずは、「あのときに、このようなことがあった」という「エピソード記憶」として貯蔵される。さまざまなエピソード記憶が蓄積されてくると、それが次第に脳の中で編集されて、「意味記憶」が立ち上がってくる。蓄積されるエピソードが質量ともに充実すればするほど、そこから編集される意味も豊かなものになる。
単語の意味を、辞書のように覚えることには弊害が多い。言葉のニュアンスは、そう単純に定義できるものではないからである。多くの用例に接しなければ、その単語の持っている生命力のようなものが摑めない。場数を踏んで、はじめて言葉の生き生きとした意味が摑めるのである。
戦前の旧制高校では、原書を読んで外国語を習得したと聞く。・・・エピソード記憶を積み重ねる、という意味で”合脳的”な方法であったことは確かである。
常盤新平さんは若いころ、ペーパーバックを単語の意味がわからなくてもどんどん読み進んだらしい。そうすると、自然に何を言ってるかわかってくるんだそうだ。
その読書が結局、翻訳者になることにつながったのだろう。
英語に堪能になりたければ、やっぱり毎日、ペーパーバックの読書、そして、映画やドラマで会話に接するしかないんだろうなあ![]()
でも私にはもう、そこまでの意欲もエネルギーも時間も残ってなさそう…![]()
ど忘れ、これはもう中高年の皆さん、何度も何度も覚えがおありだろうが、このときに思い出そうとすることが大切だと聞いた覚えがある。
茂木氏は、オックスフォード大学のペンローズ教授が、「数学の証明を考えている時の感覚と、ど忘れしてしまった知人の名前を思い出そうとしているときの感覚は似ている」といったことが正しければ…と次のように書いている。
ど忘れをして、一生懸命に思い出そうとすることは、新しいものを生み出す創造のプロセスに似ているということになる。ど忘れに、思わぬ効用がある可能性があるのである。
うまく思い出せないことにも、意味があるかもしれないと考えれば、人生に余裕が出てくるのではないか。心の余裕も、創造的に生きるために大切な要素であることは言うまでもない。
なんだか嬉しくなりますね![]()
テレビゲームについては、やりすぎなければ必ずしも脳に悪いわけではない、と茂木氏は言う。
しかし、ゲームの場合は、他人との交渉で新しいルールを決めていくということはない。既にルールは決まっているからだ。子供たちどうしが遊びながら話し合ってルール決めていくというプロセスがないのである。
子供たちは、自分たちが一番楽しめるように遊びのルールを工夫する方策を半ば本能的に知っている。誰かが圧倒的に強くて、いつも勝敗が見えているような遊びはつまらない。だから、弱い子にはハンディキャップを与えて、できるだけ結果が見えないようにする。それでも負けてしまう子は、「みそっかす」にする。遊ぶこと自体と同じくらい、皆が楽しめるようにルールを工夫するメタ認知のプロセスが大切なのである。
遊びのルールを工夫する必要があるのは、つまりは他者が存在するからである。テレビゲームも、対戦モードなどの他人がかかわる場面でルールを交渉する余地があれば、メタ認知のプロセスを活性化させられる。
でも、これは実現はそう易しくはなさそうだな![]()
ここから社会に言及して…
他人との交渉でルールを決めていく必要があるのは、大人の社会も同じことだろう。勝ち組と負け組が最初から決まってしまうのではなく、誰にでも勝つチャンスがあるような工夫をする。結果が見えないからこそ、人生というゲームが楽しめる。子供の遊びでは自然に行われていたことを、現代の大人たちも思い出してみる必要があるようだ。
以前行っていたパソコン教室の先生、BUNちゃん先生がよく、生きがいとか生きる力は、常に新しいことに挑戦することから生まれる、とおっしゃっていたが、茂木氏は、ちょっと言葉を変えて、「ぎごちなさ」が大切と言う。
身体の運動は、大脳皮質の運動野や運動前野、小脳などの運動関係のネットワークにおける学習によって、次第に洗練されていく。子供が失敗ばかりして、ぎごちなく動いているとき、その脳の中では、神経細胞の結合のドラマティックな変化が起こっている。私たちがぎごちなさに魅力を感じるのは、そこに、不断に学習を続ける生命のしたたかさを見るからであろう。
人間は、一生学び続けることができる存在である。自分がぎごちない、と感じるような新しいことにチャレンジし続けなければ、せっかくの脳の学習能力を生かすことはできない。いい年をしてみっともない、などと思わずに、ぎごちなく惑っている自分を楽しむくらいの心の余裕がなければ、脳の潜在的学習能力を生かし切ることはできないのである。
日本人はなかなかゆったりとヴァカンス、という精神構造にはないが、そのヴァカンスには効用がある、と著者は言う。バリ島に行った時の経験に言及して、そこには…
のんびりした空気が流れていて、さすがの私も、せかせか動き回るわけには行かず、昼からワインを飲み、ぶらぶらしていた。
そして、そんな時間を二日、三日と続けているうちに、意外なことが起こった。身体の芯から、何とも言えない、熱いものが込み上げてきたのである。社会生活を送る中で、ずっと忘れていた若い頃の夢や野心、ひそかに抱いていた希望などを、久しぶりに思い出すことができたのだ。その瑞々しい若さの気配に、自分の中にまだこんなものが眠っていたかと、本当にびっくりした。そして、ああ、これがヴァカンスの効用か、と思った。
そんなヴァカンスは不可能、という大多数の人には…
一度コツを摑むと、たとえば、お風呂に入っている短い時間の中でも、「プチ・ヴァカンス」をすることができるようになる。さあ、これから浮世の悩みを全て忘れて、自分の内側にあるものを掘り下げ、引き出してみよう。そう、自己暗示をかけて、ゆったりと湯船につかっていると、忘れていた自分に出会えたりする。
大きなヴァカンスをとる余裕がなければ、小さなヴァカンスをとってみよう。若い日の夢や希望を忘れてしまうのは悲しい。ヘンな健康法よりも、よほど精神と肉体の若さを保つ効果があるはずである。
楽しみは脳にいい![]()
アメリカについて、いろいろ言う人はいるが、その楽天主義は日本人がもっと見習うべきことだと思う。とりわけ、カリフォルニアの人々は、「人生をいかに楽しむか」という命題を大切にしている。楽天主義の力強さを、訪問する度に感じる。もちろん、さまざまな問題がないわけではない。それでも未来を信じて努力するのが、性根の据わった楽天主義だろう。
考えてみれば、学問も人生も、何が起こるかわからない、ごった煮の中にこそ真実がある。予想がつくような発見は、大したものではない。さまざまな要素を取り入れて、清濁併せのみ、よっしゃ任せておけと楽天的に努力して、はじめて大きな成果を挙げることができる。そのような観点からすれば、日本人全般、とりわけ名門大学の学生たちは、いささか心配性過ぎるのではないか。
人生を楽しむことが、自己実現への一番の近道である。これは、脳科学的に見ても正しい。
ここまで読んできて、すでに脳のことを考えることは、そのまま人生を考えることにつながるというのが充分実感できたが、最後の2タイトルは、私にもっと生きる指針や力を与えてくれたように思う。
”思い出せない記憶よ、ありがとう”より
親や教師は時折、子供たちが自分たちのことを将来、どれくらい思い出すのだろうかと考えて、寂しく感じるものである。確かに、自分の体験を振り返っても、学校の授業で「あんなことがあった」と思い出せたり、幼少期に「親があんなことを言った」とはっきりと想起できることは、ごくわずかである。
それでも、私たち一人一人は、間違いなく、親や教師が与えてくれた無数の「思い出せない記憶」によって支えられている。それが記憶の地層の奥深くにひっそりとしまわれているものであればあるほど、私たちの人生観、生き方は有形無形の深い影響を受けるのである。
子供たちは、「ありがとう」を言わずに大きくなっていき、やがて巣立って行く。それは寂しいことではあるが、子供たちの脳に刻み込まれた「思い出せない記憶」は、必ず人生の支えになるはずなのである。
”小さな成功体験を持とう”より、マイナスの感情から抜け出す方法について…
どんなに小さなことでもよいから、自分が楽しめて、達成感を持つようにできることに没入するのがよい。その結果得られるささやかな成功が、脳を変えていくのである。
脳の中では、何らかの成功体験=報酬が得られると、そのような結果をもたらす原因となった行動にさかのぼり、その回路を強化するような学習が起こる。情動系で働く神経伝達物質が、そのような学習を促進するのである。
ファインマン博士は、「役に立たない」計算をやって達成感を得ることで、そのような結果を導く原因となった「いろいろ考えて計算する」という行動を強化できたのである。
ファインマン博士が同僚に呆れられたように、達成感を得る手がかりは、必ずしも社会的に評価されるものでなくともよい。自分で満足できることや、身近な人にほめてもらったり、よろこんでもらったりできるような、そんな小さなことで十分なのである。
なんとなく落ち込んで、やる気が出ないという人は少なからずいるのではないか。そのような人に、私は「小さな成功体験」を勧めたい。どんな小さなことでもよい。「やってよかった」という達成感を得ることで、脳は確実に変わっていくのである。
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