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2007年10月14日 (日)

山田太一著『いつもの雑踏いつもの場所で』―抜書き―(2)

山田太一さんの教育論ですね。

 ところが、われわれが「本当の傑作」と感じる作品は、なかなか子供たちを「夢遊病者」になったように打ちのめすことも「音楽家になろうと決心する」ほどにも動かさない。そして私たちが、浅薄珍奇こけおどしの通俗と感じるような作品に感動して、人生の方向を決めてしまったりするのである。
 ときに私たち(親たち)は、焦ら立つ。たとえばマンガをとり上げ、テレビを止め、「よい童話」をあたえる。その童話の方がまぎれもなく深く、豊かで高いからだ。しかし、その深さ豊かさ高さには、子供を動かす力がない。

子供は私が見せようとしたもので心を育てることはほとんどなく、希望的なことをいえば、たとえば親がなにかを見せようとしたということで心を育てたりする。そのようなズレが絶えずつきまとう。
 したがって、多くの場合、親は子供を意図通りに教育することなど出来ない。
 しかし、教育をしないでいることも出来ない。存在しているというだけで、親は不可避的に子供を教育してしまう。ただ、その多くは意図とははるかにズレた形で効果をあげることになる。
 だから私は、親が子供にあたえる影響については、基本的には不可知論的な思いを抱いている。なにを教育してしまうか分かったものではない、という無力を感じる。

意図通りの影響はまずあたえないであろうと思いつつ、気がつくとよき影響などというものを、いじましく意図しているのである。

 で、ある時は子供が苦笑するほど甘く、ある時は自分の不機嫌をもて余して怒鳴りつける。無意識たらんとする。しかし、いってみれば「教育時代の親」である。そうした一貫性のなさを無反省に行使出来るはずもなく、絶えず悲しき自制がつきまとう。結果としては、なに事も威勢の悪いものになる。そして、それらの総体が不可避的に教育となる。しかし、その教育がどのような効果をおよぼすかについては予測不可能である。
 とすれば、親は結局、一人の人間として、多少はましに生きようと努めるしかない、というような筋道になって行くのだが、無論ことはそんなに太平楽にははこばず、私の場合にはそんな心配は断じてないが、親が出来すぎていれば子供は気力をなくす、というような事もあり、のんだくれのバクチ打ちがもっとも「よき影響」をあたえてしまったりするのである。

まったくねえ、親が良かれと思ってやった事が裏目に出るなんて、ホントそこらじゅうに転がってる話よ!!(^_^;)

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