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2007年10月28日 (日)

遠藤順子著「再会―夫の宿題 それから」―抜書き―

遠藤周作氏夫人、遠藤順子さんが、遠藤氏が亡くなった後、出された本。遠藤氏と同じ思いを持たれているようです。

遠藤順子著「再会―夫の宿題 それから」より

 生まれた土地の文化的環境によって,信仰の仕方も神の呼び名もそれぞれに異なるかもしれませんが、人類は皆大いなる存在のあることを信じ、この世で善行を積むことによって、死後もより至福な世界に生き返れることを希求していたように思われてなりません。
 マザー・テレサが言われているように、宗教が何であるかが問題ではなくて、飢えた人を食べさせ、渇いた人に飲ませ、宿のない人に寝るところを、着る物のない人に衣服を与えた人々は、皆救われるのではないでしょうか。
 あるいはラーマクリシュナが喝破したように、「道はどの道を選んでもかまわない。どうせ私に至る道だ」ということかもしれません。
 そのようなことを考えると、なぜキリスト教の神だけが、絶対唯一の神でなければならないのかという疑問が湧いてきます。どうして他の民族が心から崇拝している神々や諸仏は皆偶像崇拝であり、書簡の中でザビエルがののしっているような悪魔の仕業ということになるのか。小さい時からの長年の疑問でした。

*ラーマクリシュナ(1836-86)インドの宗教改革者。ベンガルの生まれ。古代インドのヴェーダーンタ哲学を学び、同時にイスラム、キリスト教の深い研究も行った。ヒンドゥー教の改革思想を志し、すべての宗教の合一を目指したラーマクリシュナ教団を創立した。

このネラン神父が何回か母をお訪ねくださり、お話を聞かせてくださったようでした。ある日神父さんは主人のところへ電話をしてこられ、「あの人は何も今さら洗礼を受けたりしなくても、今のままで充分天国へ行くよ」とおっしゃいました。そこで、そのまま母の受洗は取りやめになりました。

 すでに安心立命を得ている人間の心をかき乱すような事は、人間として差し控えるべきことと、ネラン神父は母の心を察してくださったものと私は今でも感謝しています。
 ダライ・ラマは『ダライ・ラマ、イエスを語る』の中で、人間は自分が生まれ育った土地で生まれた宗教を信じるのが、一番幸福なことだといっています。

このネラン神父とは、『おバカさんの自叙伝半分』(講談社)の著者のあのネラン神父のはずです。

 罪を犯しやすい弱い人間でも救われるというところまで達してこそ、本当の宗教だと私は思っています。
 私はたとえ善意からだとしても、伝来後の宣教師たちの布教のやり方は、間違っているし、心ない振る舞いであったと思います。すでに自国の宗教によって安心立命を得ていた民衆に対して、救霊という口実のもとに、「いや、お前たちの信じている神では救われない」と、心の中にまでずかずかと踏み込むような振る舞いは、東洋に古くから伝わる礼節とか謙譲などの徳に反し、「仁」に適わぬ行為でありましょう。
 せっかく法然が、汚辱にまみれた末世を生きる凡夫でも救われるというところまで時計の針を進めたものを、殉教して天国へ行くか、踏み絵をふんで地獄へ行くかという、無慈悲な選択を迫ることで、拷問の苦しみに耐えて殉教した者のみが救われるという、つまりエリートコースに進まなければ救われないというところまで、また時計の針を逆回ししてしまったのではないでしょうか。

 信者が「自分たちの両親や先祖は、神様の教えを知らずに死んでしまったから地獄に落ちていると思うが、何とかこれを救う方法はないものか」と尋ねたら、ザビエルはその質問に対して、「残念ながら救う方法はない」と答えたということです。
 ザビエルの論法に従えば、キリスト教の神を知らずにこの世を去った人は、皆地獄に落ちていることになるわけで、そうなると、聖徳太子も光明皇后も歴代の天皇も全部、地獄で呻吟していることになってしまいます。そんな目茶苦茶な論法が、いくら十六世紀であっても、日本で受け入れられるはずはないでしょう。反感や憤激を買うことは自明の理でありましょう。

遠藤…「遠藤はついに仏教徒になった」とか…。『深い河』の時もさんざん言われましたけど。
主人は、人間が作ったそんな何教、何教というんじゃなくて、もっと大きい世界があると思っていたんだと思います。

瀬戸内…私もそう思いますね。仏教でなければとか、キリスト教でなければとか、そういうのないんですよ。宗派もいらないと思っているんです。キリストにしたって、お釈迦様にしたって、大いなる宇宙の生命を現わしてくれているわけでしょう。

遠藤…そうです、そうです。私の母は熱心な観音様の信者で、主人は「お前がカトリックになっても、おふくろと別れることはないよ。結局は逢えるよ」とよく言っていました。
宣教師の話は、「キリスト教じゃなきゃ救われない」ということですよね。だけど、私も母たちが救われないなんていうことはありえないだろうと思っていました。

私自身、洗礼は受けなかったが、通った幼稚園がたまたま教会だったことがあって、中学の始めごろまで日曜学校に通い、聖書や教会の行事にも親しんだ。だから、いざ、自分が究極のところに追い詰められて、宗教に救いを求めるのならキリスト教かな、と漠然と思っていた。

だから、家庭内のトラブルに悩んだり、将来肉親の死に逢った時、自分をどう慰めるか考えて、ずいぶん、キリスト教についての本を読んだり、実際に教会にいって話を聞いたりした。

しかし、この遠藤順子さんも疑問をお持ちになった、「キリスト教を信じなければ地獄に行く」という点が、どうしても受け入れられずに、長年の煩悶の末、やはり自分は仏教でいくしかないかなと思うようになった。まあ、宗教としての仏教で、いざという時、自分が精神的に救われるかどうかは、ちょっと分らないけど(^_^;)

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