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2007年10月25日 (木)

国分康孝著『<自立>の心理学』―抜書き―

スキンシップ、人とのつきあいの大切さ、これまた、今の時代、耳を傾けるべき言葉だ。

PHP人名辞典より

国分康孝(こくぶ・やすたか) 1930年、鹿児島県出身。東京教育大学卒業、同大学院修士課程・ミシガン州立大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。専攻はカウンセリング心理学。多摩美術大学助教授、東京理科大学教授、筑波大学教授を経て、東京成徳大学教授。日本カウンセリング学会会長、日本教育力ウンセラー協会会長。

国分康孝著『<自立>の心理学』より

皮膚というのは、愛情伝授の器官である。おんぶしてくれ、だっこしてくれとねだる子どもは愛情を求めているのである。愛情が満たされている子どもは、そんなにべたつかないはずである。日本人はアメリカ人に比してスキンシップは豊富であった。親子で相撲をとるとか、風呂に入るとか、おんぶするとか、添寝するとかがそうである。過度になると自立心が損われるが、不足しても自立心が育たないのである。いつまでも甘えていたいと願うからである。

死にたいという中学生には応急処置としてマッサージしてやれということがある。これも、愛情体験がねらいである。

日常生活でスキンシップの機会を探すよう心がける必要がある。子どもに肩をもませるのもよい。バンドエイドを貼ってやるのもよい、貼らせるのもよい。あるいは、肩こりの薬をぬってもらうのもよい、ぬってやるのもよい。

 子どものときから、ショッピングに連れて行くとか台所を手伝わせるとかも、したほうがよい。料理に出されたものを食べるだけというのは、愛情をもらうだけということである。この世はギブ・アンド・テイクであることを教えなければならない。食事を通して愛情交換することを学ばなければならない。愛をもらうだけというのは子どものすることである。ある年齢に達したら、茶碗を台所に運ぶとか、茶碗を洗うとか、洗った茶碗を拭かせるとかしたほうがよい。ときどきはショッピングにつれていき、大根が食卓にのせられるまでのプロセスを知らせるのもよい。お膳の上に天から大根のみそ汁が降ってきたのではないことを教えるのである。
 今まで私が接してきた登校拒否児や出社拒否の青年で、茶碗を洗ったことのある人間は皆無であった。つまり、世の中は自分がじっとしていても愛情をくれるものだと思っているのである。甘ったれているのである。

つきあいは人生で大切なものだと思わずにはおれない。最近は自己実現ということばがよくきかれるが、ひとりで力んでも自己実現はしにくい。つきあいがあると自己実現の場が出現しやすくなる。つまり、能力がいくらあってもつきあいが乏しいと、能力を発揮する場がなかなか手に入らない。世の中にはそういう人が多いと思う。

 つきあいをもつとは、師をもつようなものである。親が教え損なったことでも、つきあいを通して学べるからである。だから子どもたちがクラブ活動に入るのは大変よいことだと思う。とくに一人息子、一人娘は部活に入って先輩にしごかれたり、教わったりすることはすごくためになると思う。

つきあいの第三の大事さは、生きる力の源泉になることである。みんなと一緒だという意識があると、少々のつらいことがあっても耐えられるのである。こんな苦労をしているのは自分ひとりだけだ、と思い込むからますますなさけなくなるのである。

次に出てくるのは「義理」と「人情」。亀田親子に欠けてるのはこれかな(笑)

 人づきあいの基本原理を親は子に教えなければならないといったが、その中身を私は二つあげたい。義理と人情である。

私の定義は、義理とは「ねばならぬ」shouldであり、人情とは「したいからする」wantということである。
 たとえば、会社を辞めたくても途中で辞めては申しわけないから年度末までは勤めよう、というのが、私のいう義理である。したくはないけれどもしなければならないからする、というのがおとなの世界である。夏の暑いさかりの葬儀には閉口するが、かつて世話になったから出席しなければ申しわけないという気持で出席する、これも義理である。あまりかわいげのないおやじだけれど、長男のおれが面倒をみないことにはしようがないというわけで同居している息子夫婦、これも義理である。
 人情とは、人に借金してでも人に金を都合してやる心境である。自分の感情に素直になることである。アメリカ人は義理では孝行しない。人情でする。親を好きになれないアメリカ人は親の面倒をみない。親に対して好きな感情があるから親孝行をする。つまりアメリカ人は人情志向的である。

 人が賀状をくれても「私、この人きらいなの。だから賀状を出したくないの」と子どもがいったとき、やはり人の示してくれた好意には、「義理」ででも返礼するのが世の中の常識であることを教えるのである。人がご馳走してくれたら、おいしくなくても箸をつけるのが感謝の表現であることを教えるのである。

日本文化ではアメリカ文化よりは「義理」が生きているから、おたがいに心理的な安定感があるのである。

ふだんから「ありがとう」「どうぞ」「はい」をしつけることである。(中略)仮にそれほど感謝の念がなくても「ありがとう」といわせるのがよい。いうことによって心もそうなるからである。

 呼んだとき「はい」と色よい返事がかえってこないと、私は語気をつよめてもう一度呼ぶ。(中略)反応がおそいのはなんらかの抵抗である。

実は…家人の一人がこの「返事」の鈍い人で、私はずいぶん気分の悪い嫌な思いをした。だから、子どもたちには、呼んだとき返事がないと叱って、必ず返事を言わせるようにしたなあ…それが効果あったかどうかは分らないけど(^_^;)

 「どうぞ」というのは、たとえばこうである。エレベーターの前で人と一緒になることがある。「どうぞ」と人にすすめるようにしつけるのである。われ先にのるのなら、ボタンを押すだけのサービス精神を発揮させるべきである。
 電話の受けこたえも大事なしつけだと思う。

 子どもが人からプレゼントをもらった場合は、礼状を書かせるようにする。書かないときは、親が一筆かいて、そのあとに書かせたりする。人の好意になんの反応も示さないのはいけない、というわけである。

子どもは親の日ごろの行動を見て覚えるということなのだろうなあ。っていうことは、最近の給食費を払わない、診療費を払わない、学校に無理な要求をするなどの、非常識な行いをする人の親も同じ考えだという事かな……

最後にもう一箇所、これまでの書き抜きの趣旨からはちょっと外れるけど、私も今一度かみしめたいことでもあるので……(^_^;)

 子どもに自由を与えることは、子どもを信頼すること、自己決定の結果は甘受させること、この二点に集約できると思う。子どもを信頼することは、子どもが失敗はしないだろうという信頼ではない。仮に失敗しても、立ち直る力を内在させているだろうという信頼である。

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