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2007年10月17日 (水)

曽野綾子著『あとは野となれ』―抜書き―(1)

曽野さんは、最近の学校の「競争させない」という状況を心配しておられるようです。

曽野綾子著『あとは野となれ』より

 学校の入試に落ちる子供は、多くの場合、その現実に見合うほどの愚か者ではない。逆に大学の入試に強い青年たちの中には、学問以外の点で不気味なほどひよわで欠けている、という場合もあるのである。
 だから、と言って、私は皆が入試なしで大学へ入れる世の中が来るようになどとは決して希わない。スポーツにうちこんでいる青年は、もし百メートル走って時間もはからず順位もつけない、ということになったら、心底から怒るであろう。なぜなら、零点何秒の差は人間の本質ではないからこそ、彼らはその差をあらそうのである。競馬馬と同じに、鼻一つの差で負けた時に、現実にそのことは笑い出したくなるようなささいなことであっても、その屈辱感、「チクショウ」と思う気持、鼻一つの差で女の子にもてたりもてなかったりする世間の愚かしさ、を噛みしめることによって、彼らはそのことで、自分の精神を成長させ鍛えなおし、そこで改めて「外面的評価で、人間は決らないや」ということを身をもって知るのである。

 子供には正当な競争をさせねばならない、と言うと、母親たちはすぐに目をむく。これ以上の受験地獄を承認するのですか、という。
 そうではない。子供たちにとって大切なのは、前にも言ったことだが、不当なる評価を受けてそれに耐えられる精神力をつけることなのである。又常に冷厳なる事実―自分のマイナス点を確認することでもある。あらゆる競争は常に二つのものを与える。不当な評価と冷厳な事実である。そのパーセンテージは一定しない。不当な評価が九十九パーセントを占めることもあり、スポーツの記録のように冷厳な事実が九十九パーセントということもある。しかしそれでもなお、一パーセントはそうではない要素がまじる。どの選手とくみ合わせられたか。その時の風向き、個人的な健康状態など、選手たちが全く公平な条件で戦っているわけではない。
 子供たちを競わせることを、どうして恐れるのだろう。人間全体を競うことなど、そもそも初めから全く不可能なことなのだ。だからこそ人間は、部分を競うことによって自分を発見し、自分を鍛える役に立てる。それをいたわる必要は全くない。

 先日或る所で或る先生が、「まいりました」と言える人間でなければ、いけない、とおっしゃったが、私もまさにそう思う。「まいりました」と優れた人物に向って頭を下げられる人間は、実は勝ったように見える人間より強い場合も多い。勝つこともいいが、私は堂々と負けられる人間が好きである。ごまかしたり打ちのめされたりせず、「そうだ、あいつはこのことに関しては、確かに僕よりできる」と言える人を見ると美しいと思う。
 しかし、外面的社会的評価に左右される人ほど、子供を競争させることがかわいそうだといい、その機会をなくすような方向に教育を持って行くに違いない。その結果、心身共に何にも耐えられない奇形児ができる。そのなりゆきは目に見えている。

この同じ心配は、インターネット検索でも大部引っかかる。うちの娘たちが学校に通っている頃に、すでに、マラソン大会が中止になり、学力テストがなくなり、通信簿評価もあいまいになったりした。特に成績については、子供の位置がいったいどのあたりなのか、その見当がつかなくなって、進学に当たって困った覚えがある。現在、いったい学校ではどういう状態なのだろうか。

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