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2007年10月27日 (土)

遠藤周作著「『深い河』創作日記」―抜書き―

遠藤周作氏は、カトリックの信者でありながらも、なかなか日本に浸透していかないキリスト教に少々違和感を感じておられたところがあるらしい。

この「『深い河』創作日記」には、そういう感じ方をたぶん底辺に、すべての宗教は、一つの山の頂上に、別々の上り口から上るようなものという遠藤氏の持論が示されている。

遠藤周作著「『深い河』創作日記」より

宗教とは何かというと、無意識だというのが私の第一の定義なんです。

そういうどこかの教団に属する以前に、人間の無意識の中にある、「自分を生かしてくれるもの」に対する気持ちがあるということです。

 われわれが生きるには二つしか道がないと思う。自力と他力。
 勇気ある人には、自分で自分のやりたいことを頑張ってやって、そして死ねば本望だという気持ちがある。若い人の場合、実際にそういう、自分が生きているんだという気持ちを持っている人は少なくない。ところが、そうではなくて、年をとるにつれて、自分が生きたんだというのではなくて、何か目に見えないものに生かされているという気持ちになってくる人もいるわけです。

 生きている場合も、自分の意思ですべて生きていると若いころはそういう気持ちでいるけれども、ある年齢を過ぎると、
「いや、そうでもないぞ。何か、だれかが後ろから後押ししてくれているんだ」
と感じるような経験をすることがある。目に見えない力が後ろから押してくれて、本来、右に行こうと思っていたにもかかわらず、その力によって別の方向へ導かれたりという、自力ではなく他力を底に感ずる経験をしばしばやるようになると、自分が生きているんだけれども、自分を包んでいる、自分を生かしている、大きな目に見えない働きを感じるようになるわけです。

 それを深層心理学者たちは、すべて無意識という言葉で片づけている。しかし、それだけでしょうか。
 たしかに、無意識の力は非常にあるけれども、それだけではなく、何か無意識を超えた別の力があって、後押しをしてくれたり、自分の人生をある方向へ歩ませてくれたりしているんだと、私個人は思っている。そういうことを感じるのを、私は宗教性と言うわけです。

「待てよ。その無意識というのはやみくもに働くのではなくて、そういうふうに後押しをしてくるときには、悪い方向ではなくて、より高い方向に押してくれる。たとえば小説がよくなる方向にとか、自分の人生がそれによって充実するような方向に持っていってくれたのではないか」
 ということを考えるか考えないかによって態度が決まってくる。
 病気にしても、日本の場合だったら不幸だというとらえ方をするでしょう。日本にはそういうマイナスのイメージしかない。たしかに病気で寝ていると、苦しいことや、つらい思いをしなければならないけれども、その苦しいことや、つらい思いのために、普通なら考えなかった人生を考えるというプラス面が、病気の中にはある。日本では絶対こういう考え方はしないけれども。
 要するに、そのプラス面とはどういうことかというと、私たちがふだん生活の中では聞くことのできない、目に見えないもののささやき、目に見えないものの声を聞くチャンスが、たとえば病気だったり、不幸だったり、子供との死別とか、親との死別といった形をとるわけです。

 各宗教は別々かというと、私は、キリスト教が説いていることも、仏教が説いていることも、ヒンドゥー教が説いていることも、根底においては共通したものがあると思う。自分を生かしてくれている大きな命に名前をつけたのが、キリスト教徒の場合はキリストだし、仏教徒の場合は釈迦であったり阿弥陀様になったりするわけです。つまり、それは富士山を東から見るか、西から見るか、北から見るかであって、登っていく道は別々だけれども、頂上においては同じだということです。

 人はだれも、死に対する不安・恐怖を持ちます。若いころはほとんど関心を持たなくても、一生のうちには必ず、死に直面する、あるいは死について考えざるを得ない時に遭遇します。
 ですから、どの宗教も死後の世界について説いています。その説くところによって、死後の世界での安楽をのぞむ。
 そこで、死後の世界には、この世と同じようなものがあって、そこで飲んだり食ったりというもう一つの世界が用意されていると考えがちです。
 たとえば、キリスト教の中での復活が蘇生と混同されて、『聖書』の中で復活したというと、死んだ者が生き返ることが復活であると思われがちだけれども、自分を生かしている大きな命、生命の中に戻ることを復活と言うのであって、蘇生とはまったく関係がない。
 その、人間を生かしている大きな命を、キリスト教では天国と名づけるし、仏教では極楽という言い方をするわけです。
 もう一度、今われわれが生きているような状態において生きるのではなく、別の形で生きるのだという気持ちは、どの宗教の中にもあるでしょう。けれども、現在われわれが生きているように呼吸したり、飲み食いしているのがまた別の世界の中でも行なわれると考えるのは、おそらく、輪廻転生を説くヒンドゥー教と一部の仏教のみではないか。
 しかし、そのヒンドゥー教や仏教における輪廻転生も、何回もそれを繰り返しているうちに永遠の生命の中へ入れるという目的があるので、永遠に転生が続くわけではない。

 ともかく、どのような宗教であれ、その根底にあるものは一緒なのであり、それは人間だれもが持ち合わせている無意識の中に存在する。それこそが私のいう”宗教性”で、あらゆる宗教の根本なのだと思うのです。

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